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花子(はなこ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - 昭和20年(1945年)4月2日)は、明治から昭和初期にかけてヨーロッパで活躍した日本人女優、ダンサー。本名、太田ひさ。 1900年代初頭、単身でヨーロッパに渡り舞台女優として活躍し、日本文化の紹介者としての役割を担った。また、彫刻家オーギュスト・ロダンに認められ、モデルとなっている。森鴎外の短編小説『花子』のモデルである。 == 生涯 == 尾張国中島郡上祖父江村(現・愛知県一宮市上祖父江)出身。2歳の時に親元を離れて名古屋に移り住み、4歳の時に養子に出され、酒井ひさとなる。 家の没落の影響もあり、旅芸人一座に入れられる。その後、1880年に舞子になり、1884年に芸者となる。 1888年に身請けされ結婚するが、1898年に離婚する。同年再婚するが1901年に離婚する。 1902年、旅芝居の一座としてデンマークコペンハーゲンへ渡る。「武士道」「ハラキリ」といった、侍物の舞台を演じたという。当時の東洋ブームに乗り、ヨーロッパ各地で巡業する。 1905年、イギリスロンドンでロイ・フラー(1900年のパリ万国博覧会で川上貞奴と川上音二郎を出演させ、日本ブームを巻き起こした女性プロデューサー)に見出され、花子一座を旗揚げし、看板女優となる。このとき芸名を「花子」とする。その後数回帰国をしたが、1921年までヨーロッパ、アメリカなど18ヶ国で巡業を続ける。この最中の1906年に再々婚するが、1910年に夫と死別し、本名を太田ひさに戻す。 公演された作品は、「左甚五郎の京人形」「芸者の仇討ち」「ハラキリ」などである。劇中の切腹(ハラキリ)の場面での、怨念と悲哀の激しい情念のこもった演技が各地で評価されていたという。1912年ころにはモスクワの演劇学校で演技指導をし、モスクワ芸術座のコンスタンチン・スタニスラフスキーらとと親交があったという。 1906年にオーギュスト・ロダンに出会い、彫刻のモデルを頼まれる。以後帰国するまでモデルをつとめた。また、ロダン夫妻と寝食を共にするほどの親交があったという。ロダンが花子をモデルにした作品は約60点。そのうち2点を花子は持ち帰っている。 帰国後は岐阜市の妹の元に身を寄せ。1945年に死去する。墓は岐阜市鶯谷町の浄土寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花子 (女優)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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